書感:サピエンス全史(我々は、神になろうとしているのか、それとも癌細胞なのか・・・?)

書籍『サピエンス全史』を読みました。

 

日本では2016年に出版され、歴史書にも関わらず?(歴史好きの皆さま、すみません)、全世界でベストセラーになり、話題になっていた書籍です。

以前から読みたいと思っていたのですが、上下巻の大著ということもあり、なかなか時間を取れずに読めていなかったんですよね。

 

今回、なんとか時間を作って読んでみました。書いてある内容としては、現生人類(ホモ・サピエンス)の歴史を、その誕生時~近現代、そして今後の予想まで、マクロな視点で俯瞰する書籍です。


普通、歴史書というと人物名や地名が多く登場し、難解なイメージ(個人的な見解です)があるのですが、この書籍は読み始めから面白いです。

難解な内容を、分かりやすい例やたとえ話などのエピソードを入れつつ、ちょっとシニカルな表現で書かれており、最後まで飽きずに読むことができました。

 

まず、歴史学の位置づけを、物理学、化学、生物学とならべて明確にしています。

  • 物理学:およそ135億年前にビッグバンにより誕生した物質、エネルギー、時間、空間などの宇宙の根本をなす要素の物語
  • 化学 :ビックバンからおよそ30万年後に、物質とエネルギーが融合して誕生した、原子や分子とそれらの相互作用の物語
  • 生物学:およそ38憶念前に、地球と言う惑星で特定の分子が結合し誕生した格別大きな構造体、=有機体(生物)の物語
  • 歴史 :およそ7万年前、ホモ・サピエンスという種に属する生物が生み出した精巧な構造体、すなわち文化とその発展の物語

 

このような視点で各学問を並べて考えたことなどなかったので、最初から“目から鱗”状態です。

 

続いて、その歴史の中での大きな変換点となった「認知革命」、「農業革命」、「科学革命」の3つの大きな革命を挙げています。

 

「認知革命」というのは、およそ7万年前に、ホモ・サピエンスといわれる生き物が、虚構、つまり、この世の中にまったく存在しないもの(見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在≒想像上のもの)について話すことができるようになったことを指します。

 

この能力により、多数の見知らぬサピエンス同士が協力し、柔軟に物事に対処できるようになったことが、現生人類(ホモ・サピエンス)が他の生物種を凌げるようになり、食物連鎖の頂点にたった理由になります。

結果として、10万年前にはホモ・サピエンス以外に、少なくとも5種類の人類(ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・エレクトス、ホモ・ルドルフェンシス、ホモ・デニソワ、ホモ・フローレンシス)がいたのですが、彼らを絶滅させることにもつながりました。それどころか、非常に多数の動植物種を絶滅させ、同じサピエンス同士でも多数の民族を絶滅させて来たのです・・・

 

ともあれ、この虚構を話す能力は、一人の人の頭の中にしか存在しなかった虚構を、大勢の人が共有することができるようにし、多くの人が共有する「共同主観的」な存在、つまり、神話や宗教、国家などを生みだしました。筆者は、それどころか、通貨や企業、人権までも虚構と言います(確かにそうかもしれません)。

 

あとの2つはともかく、この「認知革命」という概念を私は知らなかったので、とても新鮮でした。

 

続いて、およそ1万2千年前に起きた「農業革命」です。それまでの動物を狩り木の実などを採集していた狩猟採集生活から、穀物や野菜を栽培し、動物を飼う生活を営むことで多くの人が集まって生活ができるようになりました(多くの人が集まって生活するために、農業技術を発明したのかもしれません)。

人の集積度があがるにつれて、国家ができあがり、文字や法制度、通貨なども発明されてきました。そして、文化・文明と言われるものも、発達してきたのです。

 

ところが、この農業革命が人類にとっての大躍進だったとする通説に対して、筆者は異論を唱えます。確かに、人類種の躍進=個体数ということであれば、人類種は農業革命によって大躍進したと言えるでしょう。しかし、人類の一人一人という視点で考えた場合、全然異なる結論となります(以下、引用)。

『農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民より一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は、手に入る食料の総量をたしかに増やすことはできたが、食料の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は史上最大の詐欺だったのだ。
では、それはだれの責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や承認のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだった。』

 

なんと、人類(サピエンス)が小麦などを栽培化したのではなく、小麦などが人類を家畜化したのだと・・・!

小麦の視点からすると、中東地域にのみ自生していた野生種が、いまでは全世界で大量に人類によって栽培されている。。。生存と繁殖という基準で見れば、大躍進したと言えます。

 

うーん。。まさに“目から鱗”です。。


あと、全然知らなかったのですが、書記体系(文字による情報の記録体系)は、税の支払いや負債の蓄積、資産の所有権などを表す実用的な文書から始まったそうです。

そこから、長い期間をかけて、話し言葉をおおむね完全に記録できる完全な書記体系が生まれてきたのですね。

コンピュータ言語も、徐々に進化してきているし、今みたいに泥臭く1つ1つの命令を書かんでも、「こんなことやっといて」と人に頼むように書いたら、自動的に処理してくれるようになるのかしら??(そうするとIT業界の人が大量に失業することになるけど・・・)

 


最後に「科学革命」ですが、こちらは僅か500年の間に、サピエンス(現生人類)の力を前代未聞の驚くべきレベルに発展させました。

西暦1500年には、約5憶人いたサピエンスは、今日、約70億人(14倍)に達します。1500年に生み出された財とサービスの総価値は、現在の価値に換算して、約2500億ドル(240倍)と推定されるそうですが、現在生み出される総価値は60兆ドル/年です。また、1500年には1日あたり13兆カロリーのエネルギーを消費していた人類は、1日あたり1500兆カロリー(115倍)を消費しています。

 

とてつもないレベルの増加ですが、それが個々の人間の幸福につながっているかについては、疑問を呈しています。

さまざまな歴史上のイベントを通じて、それらの因果関係、特にもたらした結果について、サピエンスや西欧文化に都合の良い解釈だけではなく、負の側面も合わせて説明しているのが興味深いです。

 

また、科学革命がこれまでと異なっていた点として、自分達が「知らない」ことがあると積極的に認めた上で、それらの「無知」を探求し「既知」に変え、それをテクノロジーとして人類(人類種全体、もしくは、エリート層)の向上に利用するところだと言います。

それまでの学問では、エリート層にいる指導者達は「何でも知っている」という前提で権威を保っていました。

それに対し、近代科学の世界では、「知らないこと」があるのが前提で、その「無知」を「既知」に変えていくことを飽きることなく追及しています。

もちろん、それを行うには、時間もお金もかかるので、権力者から必要な資源(人・モノ・金)を提供してもらう必要があります。科学革命が成り立ってきたのは、科学的な研究を行うことでこれまで知られていなかった新しい「知識」を獲得し、そして、新たに得られた「知識」をもとに新たな「力」=テクノロジーを生みだして資源を持つ権力者たちに提供し、その見返り?として新たな科学的探究のための資源(人・モノ・金)を受け取る、というフィードバック・ループが回ってきたからです。逆に、500年前までは、このようなサイクルが回らなかったから、科学革命が発生しなかったのだと言えます。


ところが、この科学革命によっても、個々人の幸福度が上がったかと言うと、そうとは言えないと筆者は指摘しています。(逆に、科学のせいで不幸になったとまでは言ってないですけどね)

 

詳細は本書を読んで欲しいのですが、幸福度の測り方についてもいくつかの指標を紹介しつつ、この領域はまだまだ発展途上の領域だとしています(筆者は、仏教の幸福感に関する考え方に賛同している様に見えますが、結論的には書いていません)。


そして、最後に、未来予測ではないですが、今後の人類が歩もうとしている方向性についていくつか仮説を書いています。いずれも、現在の人類であるホモ・サピエンスの能力を拡大し、超ホモ・サピエンスといえるような存在になっていくと想定されるが、このまま力を増大させた先にどうなるべきかが見えていなければ、非常に危険なことになるのではないかと指摘しています。

あとがきでは、「神になった動物」として、以下のように結んでいます。

 

『私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど検討もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。
 自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?』

 


うーん。。。
とても示唆に富んでいます。本書を読んだすべての人が歴史観を変えるかどうかは分かりませんが、間違いなく、視野は拡がると思います。

 

私のつたない文章力では、本書の魅力を伝えることは十分には出来ませんが、最初から最後までどのパートを読んでも新鮮な視点を得ることができ、非常に刺激的でした。

 

途中の数々の侵略・征服の歴史や、不合理な社会階層の話を読むと人類が嫌いになりそうな思いにも駆られますが、一方で、徐々にこうした不条理なことも正しく認知され、社会として改善に向かおうともしているので、未来の人類に対する希望までを捨ててはいけないな・・・とも思います。

社会格差の問題は、農業革命が始まって以降ずーっと人類に付きまとっている課題なので、そんなに短期間に変えることはできないのかも知れませんが、ここ数百年の劇的な変化の歴史を見ると、案外早く、こうした諸問題を完全解決とはいかないまでも、改善していくことは可能なのかもしれません。

その前に、地球温暖化をはじめとする環境破壊で自滅しない様にしないといけないですね。。。

 

自分自身もその当事者として、なにができるだろうかと、考え込んでしまいました。

 

ともあれ、少しでも興味を持たれた方が居たら、ぜひ、本書を読んで欲しいと思います。

 

ではまた。